西域紀行

シルクロード独り旅


半田強



(著者は甲府市在住の画家。1996年5月から二ヶ月間、一部大木記念美術作家助成基金により、中国シルクロード取材独り旅を行う。採録=地域資料デジタル化研究会。本編では外字を※で注釈しております。このページはIE5.0以降のブラウザで最適化されています。)



敦煌

 それは、あまりに急激にやって来た。太陽を遮るように、少し風が吹き、砂が舞い始めたかと思う間も無く、そう、ものの五分とたたない内に、ゴーゴーと砂嵐が唸り声を上げ、あっという間に真の闇になってしまった。時折走る稲妻だけが鮮明である。鳴沙山という、どこかしら涼やかな名前に引かれて出掛けて行った時の出来事だった。砂だけでできたその山に、一歩足を踏み入れたとたん、それを拒絶するように唸り声を張り上げたのだった。押し戻されながら、僕の頭の中で、シルクロードという美しい言葉が、嵐と共に吹き飛んでいった。ミニバスの、か細いライトだけが頼りで、二時間余り身動き出来ずにジーと待機する。這うようにしてもぐり込んだ車の窓に、メチャクチャに砂が当る。暗黒の世界に駱駝の鈴の音が帰路を告げている。それに促されるように、人をいっぱいに押し込んだミニバスが、ソロリソロリと動き出す。
 その日の宿は、その鳴沙山に一番近い立派なホテル。立派な、などとわざわざ書いたのは、設備の整ったという意味で、後の光景を述べるための布石である。その門前で一人降ろしてもらったのだが、一メートル先が見えない。やおら、花粉症用のメガネとマスクを取り出し上衣を頭からすっぽり被る。足の感覚だけで、道を探り、百五十メートル程先にある離れの部屋に這うように辿り着く。その間二十分程もかかったろうか。ほうほうの体で逃げ帰った哀れな姿が、そこに在った。
 やっとの思いでドアを開け、停電して真暗になった部屋に向けて、懐中電燈のスイッチを入れる。ところが、その光に照らし出された中の様子を見て唖然。灰のようなパウダー状の砂が、ベッドやスタンドを覆い、さながら、砂の立体彫刻である。先に書いたホテルの形容詞は、この部屋の様子を書きたかったからである。外では、ゴーゴーとすざましい砂嵐の荒れ狂う音がする。その風が、ドアを開け閉めする、僅かな隙間から煙のような埃を運び入れてくる。
 何はともあれシャワー。耳の中に入り込んだ砂も綿棒で取り除き、やっと一息。ホテルの人が心配して何度も電話をくれたことを話しながら太いローソクを二本持って来てくれた。敦煌中が砂で真暗だとも言った。春先にはたまにあるそうで、彼は落ち着いたものである。マスクをして、とにかく眠りにつく。外は相変わらずの轟音。とても寝付けない。これからの砂漠の旅を思い少々憂鬱になる。
 時間を少々元に戻そう。今回の旅は、体力のあるうちに、砂漠の地へと、北京、西安は各一泊。起点の地、敦煌へ空から舞い降りた。途中、眼下では、ミケランジェロ・アントニオニ監督の作品の題名のような砂漠が、日に染まって『赤い砂漠』を演出していた。その赤茶けた砂漠も、このちっぽけな飛行場に着く頃には黄土色を増し、圧倒的質量を持って迎えてくれた。先ず前記のホテルに重いリュックを放り出し、砂漠の回廊、莫高窟へ。そしてここから僕の旅は始まった。
 町中に出て、取り敢えずの足として、バイクタクシーを拾う。そのオートバイに簡単な荷台を付けただけの乗り物で出掛けたのだが、無知を知らされたのは、砂漠に差し掛かってすぐである。風と共に頬に砂が当る。帽子とサングラスだけの防禦では、賄いきれたものではない。痛い。そして当然暑い。その上こんなスピードの上がらないオンボロバイクで向かうこと自体馬鹿化ていた。この最初の砂の風が、その後の嵐に繋がるとは、その時は、思ってもみなかった。こんな時、あの砂嵐に魘われたらどうなったかと思うと、今考えてもゾッとする。
 その日は、その後ミニバスで四日程通った莫高窟を、日がな一日溜め息混じりで見て回った。誤解の無いよう書くけれど、この溜息は、感動と疲れが心地よく交差する感嘆符でもある。
 その莫高窟のこと。大ざっぱに記すと、初期(北凉・北魏あたり)のものは、西域の香が強く、ことにインド形式が色濃く、275窟の本生物語絵などは、変色により当時と趣を異にしているだろう太い隈取りが表われ、どこかルオーの絵を見るようで、実に面白い。四世紀頃始まり、約千年の歳月が費やされた、この石窟群は、その時代時代の文化を反映し、多様な民族をも取り込んで展開されている。隋代に入ると中国化が進み、上半身が大きくデフォルメされた表現などに、人間的親しみを覚える。427窟などが、その良い例であろう。さらに唐代に到り円熟期を迎え、洗練され、完成される。初唐の329窟は迦葉と阿難が正面の如来像を脇侍と共に守り、千仏が天井を埋め尽している。この形式は他の窟でも多く出合った代表的スタイルでもある。また中唐の158窟は長さ十六メートルもある涅槃像が在り、周囲を嘆き悲しむ弟子達が取り巻いている。その中に吐蕃(チベット)王の姿など描き込まれ、当時の国勢なども見て取れる。それから盛唐の130窟は、96窟のバカデカイ北大仏と比較される南大仏を擁して人々を圧倒している。もっとも唐代の美しさは、大きさではなく、こぢんまりとした45窟の七尊や浄土図の中にこそ有ると言える。その他、多くの窟については、研究者や記述も多く、余計なペンを執らないことにする。僕一人の感動を僕一人の心に仕舞い込むというのもいいもんだ。只、一つだけ触れておきたい場所がある。16窟の通り道の脇に掘られた小さな17窟のこと。この空間は、井上靖に『敦煌』を書かせ、スタインやフランスのペリオ、或いはロシアのオブルーチェフなどが重要な文献を持ち去った蔵経洞の跡である。この小さな洞に足を踏み入れると、どこからともなく起る歴史の風が、体の中を通り抜けて行く。この三メートル四方たらずの暗い洞穴(ほらあな)が、敦煌全体の窟を飲み込んでいるかのような錯覚に魘われてしまう。これは敦煌のブラックホールではないか。
 ここでは、丁淑芳さんのお陰で、観光客の三十分位前に入れてもらい、何度かゆっくり見学することが出来た。感謝、感謝である。しかし、ここの荷物預り所では、管理人にサングラス(防塵用)を抜き盗られるという、何とも苦々しい思い出が残ってしまった。すべてに施錠でききれないので仕方がないが、お陰で、帰国後眼科医の世話となることになった。
 初日の砂だらけのホテルから、早速宿変えをするために、町中へ向かう。昨夜の風は弱まり、今朝は雨。年間降水量の極端に少ないこの地には珍しい恵みの雨である。その恵みが心地良く、傘も差さずに宿捜しする。ふと気付いて、Yシャツを見ると泥が付いている。何と雨が泥。泥の雨が降っているのだ。昨夜の砂嵐の仕業だろう。とうとう体もリュックも泥だらけのまま次の宿へ駆け込んだ。こういう過酷な砂漠の気候が、莫高窟の千仏達を守ったのだと、つくづく実感させられた。
 敦煌は、匈奴や吐蕃が、西夏やモンゴルが住民となり追われるという歴史が繰り返され、その歴史劇も砂の嵐に飲み込まれてしまったようだ。事実、漢代や唐代の敦煌は現在の町から三キロ程も離れた処で、すっかり土に埋もれてしまっている。今在る敦煌の町は、清代の初めに造られたとかで、敦≠ヘ大きい、煌≠ヘ盛んといった随分と立派な意味で、名前だけは、この地に受け継がれている。しかし砂漠の大きさからみれば、どんな名前であろうとチッポケなオアシスの町でしかないのだ。
 この敦煌が歴史の舞台に登場するのは、漢の武帝の時。河西の地は匈奴の勢力圏にあり、漢王朝にとっては、癌であった。そこで衛青や霍去病が登場し匈奴を討ったというような事を教科書で習った気がする。そんな歴史のカケラも見えない現在の小さなオアシスの町ではあるが、美術史の中にあっては、この敦煌の名前は、まさにピッタリで、大きく盛ん≠ナある。
 初めの砂嵐は嘘のように過ぎて、その後は風も無く、強い日差しだけが、薙ぎ倒されたポプラの上に注いでいる。再び訪れた鳴沙山も何事も無かったように静かで、のんびりとしたラクダの姿だけが見えている。そこには、只、砂、沙、砂、沙だけの世界が広がっていた。
 この巨大な砂だけの山の麓にポツンと一つ小さな寺が在った。今も熱心な信者が香を※1[「※1」は「火へんに主」。読みは「た」]き、その脇では、懸命に仏像を造る人の姿があった。あの莫高窟の像と同じ造り方で、今も信仰の対象として造られている。粘土に藁を刻み込み彫塑するこの方法は、乾燥地帯だからこそ成り立つ手段であろう。この小さな寺に、かろうじて、莫高窟からの歴史の道が繋がっていた。


トルファン(吐魯番)

 敦煌から柳園までミニバスに乗り、そこから列車でトルファンヘ向かうことにする。バス停まで見送ってくれた夏青年は、敦煌のバザールで酒を酌み交わし、友達になった人。彼の手配で簡単に買うことが出来ないといわれていた列車の切符が入手出来た次第である。やはり、旅に付き物といっても、別れのシーンは辛いもの。後髪を引かれる思いの敦煌を後に、小さな柳園の駅前に立ったのは、それから三時間程してからだった。
 駅で、二時間程待ったろうか、列車が重そうに、ゆったりとホームに滑り込んできた。そして、この列車はガレて何も無い砂の大地を、ゆっくり、ゆっくりと北西に向かう。それにしても、この列車ときたら、何て遅いんだろう! 単調な風景から目を反らし、体を横に投げ出すと、疲れがドッと押し寄せる。ゴトゴトとレールに当る車輪の音を子守歌に眠りにつく。車中で一夜を明かすと、そこはもうトルファン。
 先ず宿を決め、それから蘇公塔やブドウ溝、カレーズ(坎児井)を散策する。蘇公塔は、当時の郡王スレイマンが、父イミン・ホージャの功績を讃えて建立した四十四メートルの塔である。真っ青の空に、眩いばかりに毅然として立っている。横手にあるモスクの階上からは、葡萄畑や綿畑が見え、僅かな風が心地好く過ぎて行く。
 葡萄溝は、町の東北部の谷間(あい)にあり、水は流れ、八キロメートルにも及ぶ広さの畑を持っている。緑の葡萄棚で覆われたこの一帯は、まさに別天地である。
 カレーズとは、この町を支える心臓と血管で、灌漑用地下水道のことである。千年も前から作られたというこの水道は、山の麓から畑に向かって幾つもの竪穴を掘り、その底を横に繋いでいる。イランなどで用いられる、この灌漑の方法は、シルクロードの生きた証しでもある。ここトルファンのカレーズは、千百本余りあり、何と、全長三千キロメートルのすごさを持つという。観光地めぐりの気分で見てきたこれらは、これ位にして、本題に移ろう。トルファン盆地の郊外には、赤く燃え立つ火※2[「※2」は「焔」の異体字。unicode7130。読みは「えん」]山があり、遺跡が点在し、千仏洞が残されている。その事どもは、書かなくてはならない。
 早朝、チャーターした車の運転手と、バザールの片隅で食事を取る。焼飯の上に大きな餃子が五個トッピングされたものを平らげる。時々歯にジャリッと砂が当たる。結構いけるのだが、砂の感触が歯に残り、むず痒い。腹拵えがすめば、火※2山へ向けて出発だ。彼のボロ(失礼。)車の間延びしたテープからは、現代の吟遊詩人のウイグル語の歌が悲しげに聞こえてくる。哀調を帯びた、演歌調フォークというか、聞き覚えのある東洋の音階を持って、デコボコ道を流れ行く。確かにこの瓦礫た道のリズムには、モーツァルトやべートーベンは似合わない。
 ウイグル語で『キジルタグ』。赤い山を意味する火の山、火※2山は、西遊記に登場する化け物共宜しく、リアリティーを持って迫ってくる。岩はひん曲り、赤茶けて燃えている。牛魔王も出てくるというものだ。芭蕉扇でもあればと思いたくなるのも無理も無い。こんな処を仏典を求めて、馬か何かで越えるとなると、並の精神力では、すぐさま萎えてしまう。
 その山麓の中を、右手にムルトウク(牧爾吐紺)河の断崖を見て、喘ぎながら登ると、ベゼクリク千仏洞は、そこに在る。六世紀から十四世紀にかけて営まれた石窟寺院で、ウイグル語で、『装飾された家』という意味を持ち、その名の通り、胡粉や白緑が往時を忍ばせている。だが無残にも菩薩はもぎ取られ、仏画はメチヤメチャに切り刻まれ、傷だらけの姿を晒している。ヘディンだったか、一寸記憶が曖昧だが、西欧の探検隊に剥し取られ、イスラム教徒の侵入で、徹底的に破壊されたこの千仏洞にとって、化け物とは、人間のことを指すに違いない。が、結果的にではあるが、西欧などの博物館に収まったことで、イスラム教徒の打ち壊しの難を免れた美術品にしてみれば、探検隊は、命の恩人とも言えよう。上野で見た、シルクロード大美術展の美しい仏達と、ここの傷付いた仏達が重なり、複雑な思いに捕われてしまうのは、如何ともしがたい。それは他の千仏洞でも抱いた、同じ感慨でもあるが。  
 ここからさほど遠くない処に勝金口千仏洞がある。運転手も知らないので、車で三十分程下ってもらい、そこからは、自分の足で探す羽目になった。熱い。熱い。とにかく熱い。やっと見付け出した勝金口の荒れ方は更に酷く、傷ついた仏達は、朽ちるに任せている。もちろんこんな場所を訪れる人もなく、管理人さえいない。余りの痛々しさに、カメラを向ける手は重く、シャッターの音は鈍い。天井に残る花と木だけが、異教徒も傷付ける必要が無かったのか、やけに鮮明に映えている。人も物も何れは滅びる。しかし朽ちていく暗い洞窟の中で、懸命に生き続けるこの絵画達を、僕は忘れることは出来ない。
 それから、ここトルファンには、かって、漢代の車師前部の都城が置かれ、魏晋南北朝時代から元にかけて高昌国郡、西州都督府に治められ、また高昌国と西州ウイグルの王都として栄えた城址がある。
 その一つ、漢代に中心地だった交河故城は、町の西約十キロメートルのヤルナイゼ川の中洲状になった台地にある。赤茶けた土に崩れかけたレンガの壁がめぐり、北側の寺院区や南側の住居区が見て取れる。まわりの砂漠に飲み込まれないためかのように、積み上げられたレンガの塊は、あまりに土の塊でしかなく、当時の人々を忍ぶには心もと無い。その乾ききった土塊を握りしめると、ここの都が夢であったかのようにに、もろく土に帰った。
 もう一つの城址、高昌故城は、玄奘三蔵も立ち寄り、仏典の講義をしたことでも有名な所で、千年も栄えたと言われている。その日も空は青く澄み、あくまでも広い。
 そして、だれもいない城の跡は、空まで続いていた。試しに持参した温度.湿度計を土の上にそっと置いてみる。目盛はそれぞれ、ぐんぐん動き七十度を越え、零パーセントを振り切る。日本からの計器は、気温は七十度。湿度は零パーセントと、そこまでの数字しか記入されていない。この地は、彼の地の常識を遥かに越えている。歩くには広過ぎるこの廃墟を、一人夢遊病者のようにうろつくと、兵共が、そこここから出てきそうな気さえしてくる。スケッチブックの白い紙は、陽の光をいっぱいに跳ね返し、チカチカと目を射る。頭の中がくらくらし、黄色くはだける城壁を、とても線などで辿る気がしなくなる。代りに取り出したカメラの、乾いたシャッターの音だけが、砂地に反射する。一度入口まで引き返し、ロバ車を頼み、仏塔のあった場所に案内してもらう。少年が操る手綱は慣れたもので、ラヒメッティ(ありがとう)、ヤクシミシズ(こんにちは)、ハイル・ホシ(さようなら)など簡単なウイグル語を教えてくれる。途中観光客相手のラクダが、地面にべタッと座り込んで動こうともしない。目敏く僕を見つけたラクダの主人は、砂漠はこれに限るとばかりに誘ってくる。しかし、すっかり慣れた少年とのコンビを解消するわけにはいかない。
 石畳の先で待ち構えていた無人の仏塔も、レンガの壁を露にし、白い漆喰が風化に耐えている。大国の栄枯盛衰の夢の跡が、足下の土に散らばっている。朽ちかけて尚残る亡霊のような建物は、背景の空のブルーに浮き出され、残酷でさえある。
 帰路、アスターナ古墳に立ち寄る。アスターナとは、高昌国貴族の地下墓群で、ウイグル語で『休息の場所』という意を持つそうだ。地下への階段は細長く続き、突き当たりには、民画のような素朴な壁画が描かれ、その前に、ミイラとなった主が眠っている。そうそう、三つ目の墓に近づいた時のことだ。僕のような旅人が彼らの休息を妨げたのを咎めるように、一匹の蛇が、やおら足元に近寄って来た。ササササーという砂の擦れる音で気が付いたのだが、一瞬、身が縮み上がった。墓守りではあるまいが、余りのタイミングの良さに驚いてしまった。そう言えば、この墓の入口は、何処か大蛇の開けた口に似ている。ミイラ達よ安らかに眠れ。
 目を現在の町に移そう。高昌路にあるトルファン博物館では、チケット売りのばあさんが、ソファーに足を投げ出して寝ていた。入館したいことを伝えると、迷惑そうに目を擦り、さも仕方ないといった体で中に入れてくれた。客など誰もなく、薄暗い照明にミイラや彩色土器が、壁画の一部と共に照らし出されている。紀元前五世紀から十二世紀頃までのトルファンの歴史を垣間見ることが出来るが、展示室が暗過ぎるせいか、歴史そのものまで消えてしまいそうだ。
 一歩足を踏み出すと、外の世界は、一瞬、真白になる。その世界が色彩を帯びてくると喧騒と共にバザールの活気が、くっきりと見えてくる。商品を遣り取りする人々の顔には、さまざまに混血し、粘り強く生きて来た、多様な民族の表情が刻まれている。夜に入ると、人々は、空いたおなかを満たそうと、蛾のように、裸電球の下に集まってくる。麺に豆と羊肉の炒めた物を載せて食べる。あるいは、シシカバブーや油餅といった類を食べる。スパイスの香が、煙と共に雑踏の中に漂っている。星空の下での食事も、けっこう乙(おつ)なものである。ビールもうまい。
 微かなアルコールを体に残し、ウイグルの民族舞踊を見に行く。観光客を対象にした、たわいない踊りではあるが、インドやトルコを合わせたような感じで、西方の香りが醸(かも)されている。それにしても生の演奏はすばらしく、ことに弦が良い。数種類の弦の合奏に、莫高窟の飛天や、正倉院の御物に思いを馳せ、僅かではあるが、先程のアルコールの残りも手伝って、イイココロモチになる。
 ポプラ並木にオアシスからの水が流れ、モスクに人々が集い、ヤクシミシズ(今日は)≠ェ交わされる。ここはイスラムの町、ウイグルの町である。嘗て西域経営を巡り漢民族と遊牧民族との板挟みで翻弄され続け、車師前国と呼ばれ、高昌国と呼ばれ、ある時は唐が安西都護府を置いた場所となった。その後、吐蕃などの勢力に追われたウイグル遊牧民が農耕民に転身して現在に至るトルファンの歴史は、ここの長い昼の明るさと同じ分量の辛苦を負っている。しかし、漢族やソグド、イランやチベットといった多彩な表情を引き継いだ子供達の顔は、この空のように澄んで輝いている。


ウルムチ(烏魯木斉)

 トルファンからクチャヘ向かうつもりだったが、ウルムチから寝台バスがあると聞き、博物館を見たいことも手伝って予定変更。汽車站へ行く。一寸断っておくと、こちらでは汽車はバスの事。因(ちなみ)に火車が列車の事。そのバスターミナルヘ、朝六時頃向かい、七時発のバスに乗り込む。薄汚れたプレートには黄海客車と横書きしてある。黄海とは良いネーミングで砂漠を端的に言い当てている。
 狭くギューギュー詰めの座席と中の暑さで朝からげんなり。隣りでは、太ったおばさんが、さっきからむしゃむしゃ食べてばかり。一時間半もである。その向日葵の種の食べ滓は、そこらじゅうにばら蒔かれる。後ろのおばさんも、負けじとひからびた干し葡萄を口一杯にしてわめき散らしている。車窓からは、遥か後方と前方に雪山が見える。カラコルムと天山山脈だと大食いのおばさんは言う。本当にあの後方に小さく連なる雪の山々はカラコルムかしらん。だが前方の白い雪は間違いなく天山の嶺々だろう。この熱さの中で雪山を見ていると、シュール絵画の中にとじ込められた錯覚に陥ってしまう。熱風はガタガタ道に呼応するかのように縒(よ)れて入ってくる。そしてバスもよれよれになりながら、やっとの思いで二道橋のターミナルに到着する。ターミナルといったって特別な建物があるわけではなく、バザールの一角にポンと放り出されただけである。すぐにあたりを一周するが、どうも方向がわからない。地図を取り出し、とにかく町の中心に向かう。向かうと書いたが、実際は向かったつもりに過ぎなかった。地理感を失して、仕方なく土地の人に地図や漢字で場所を聞くが、答えが前方であったり後方であったり。気を取り直して、前進あるのみと歩いてはみるものの、重い荷物で肩が痛い。結局随分遠回り(というのは、一本間違えて歩いた道が大きく迂回していた。)して、南門に辿り着く。辺境の地にあっても、ビルが立ち並ぶ大都市である。着けばすぐホテルは見つかるものと高を括っていたのが間違いの元。もっとも中心部には、何だって有る。タクシーもバスもホテルも、いとも簡単に利用出来る。ここは単なる中継地点のつもりだから、すぐにクチャ行きのチケットを買いに行く。二道橋ではなく、碾子溝バスターミナルからしか、クチャ方面行きは無いので、駅前バスターミナルと共に、混同しないよう気を付けなければならない。これは僕への注意事項。案外すんなり(というのは、再び訪れるウルムチで、大変な思いをすることになった切符の話があるのです。それは後で。)前売りチケットは手に入り、その足で博物館へ急ぐ。
 さすがウィグル地区一の博物館だけあって、石器、土器から織り物、彫刻などを使って歴史の多様な展開を示している。奥まった一角には、十体程のミイラが横たわり、あの楼蘭の美女?も一緒に眠りについている。左手奥には、漢代や唐代の俑が美しい姿を見せ、時代は定かではないけれど、木に彫られた馬のプリミティブな表現などは、大変興味深く心を引きつけるものがある。こんな広い場所に、鑑賞する人は三人程度。何と贅沢な時間を過ごせたことか。体の疲労は心の糧で和らげられる。
 都市の食事で油断したのか、昨夜から下痢が続く。朝食も昼食も軽く取る。クチャヘの一泊のバスは、少々不安であるが、予定通り出発する。水分だけは、しっかり確保し、冬用のコートを取りだし、準備万端怠り無しである。寝台といっても、もちろんここは西域。日本ではとっくに廃車になる代物に二段式のベットが設えてある。他の車に比べれば快適と言うべきで、取り敢えず、横になれるだけで有難い。走り始めて蒸し風呂だった車の中も、夜は冷気が膚をさす。早速持参したコートの世話になる。夜空には、一面に宝石をちりばめたように、星がきらめいている。そして、いつしか疲れの中で眠りにつく。朝六時半過ぎ、コルラで朝食休憩。昼頃には二度目の故障。とにかくこのバスはよく止まる。百八十度砂だらけの大地に、か細く引かれた絹の道≠ヨ太陽は容赦なく降り注ぐ。皆死んだようにぐったりと動こうともしない。もちろん僕も死んでいる。時折、驢馬の悲鳴のようなクラクションで再生するものの、すぐ死人に戻ってしまう。二時半頃に三度目の故障。二人の運転手は、とにかく忙しい。それから暫くは順調。忘れかけた頃に出てくる標識に『庫車』の文字を発見しては、安堵したりもしていた。ボンヤリ眺める視界の中に、羊を追う少年が映り、驢馬の姿が見えると、何か懐しい風景に出合った思いでホッとする。そしてバスはそのオアシスの緑を平気で擦り抜けて、又見飽きた砂の世界に入って行く。三十分程も走ると急に不安が襲ってきた。標識に『庫車』の字が見えない。あれ程『クチャ』といって確認もしておいたのに、二人の運転手は、うっかりして通り過ぎたのだ。もしやと、紙に『庫車』の字を書き、提示したことで、次のオアシスの町まで持っていかれずにすんだ。さっきのオアシスが、クチャの町だったのだ。運転手は平謝りだったが、そのまま僕を置き去りして行ってしまった。その後姿を見送る僕の姿の情けなかったことよ。砂漠の道をリュックを背負い、ショルダーバッグをぶら下げて歩く姿は、何とも、もどかしい。まるで漫画ではないか。滴り落ちる汗が目に染みる。暫く歩くと砂煙を上げて大型トラックがやって来た。思いきり右手を振ると、百メートル程先で止まってくれる。人の親切が身に滲みた一コマであった。


クチャ(庫車)

 玄奘三蔵の大唐西域記に出てくる亀茲国、ここクチャは、後漢時代には匈奴を退け、西域都護府が、唐代には、安西都護府が置かれ、軍事的拠点として栄えた。そして今は、クチャ人もクチャ語もすっかり消え、ウイグルの人々が往来を行き交っている。そんな町クチャは、今回の旅の目的地の一つキジル千仏洞や数々の仏教遺跡を周辺に抱えている。周辺といっても各々の遺跡は、ジープで砂漠の中を二時間余りも走って、やっと辿り着くといった荒れ地の中に在るのだが。
 途中、草木も生えない奇岩や真白く光る塩の川などを越えると、キジル千仏洞は、そこに在った。敦煌と共に是非訪れたかったこの場所は、新彊最大の規模を誇り、クチャから西北七十五キロメートルの拜城県に在る。僕が二度訪れた間に、この広い千仏洞で数名の見物人に会っただけで、閑散として閑古鳥ならぬ、鴉の声だけが響いていた。案内人が、私一人のために、窟の扉一つ一つ開け閉めする苦労は、敦煌の時と同様で、申し訳ない思いもするが、管理する人がいなくなると、すぐさま荒れ果ててしまう事実を思うと仕方ない事だと思わざるをえない。実際イスラムの侵入や、諸々の事由により、塑像は持ち去られ、或いは絵画と共に打ち砕かれた。その傷を負った仏達は痛ましいばかりだ。しかし、不遜ではあるが、現代美術の視点から、掻かれた顔や変色に新しい美を発見し、感動することだってある。 
 私一人の楽しみ方はさて置き、これらの美術史的価値も大きい。三世紀頃から九世紀にかけて造られたこれらの石窟は現在二百数十確認されている。ことにドイツ探検隊に『音楽洞』と名付けられた38窟には、飛天の他、捨身飼虎図や風神、それに思惟菩薩など、日本でも馴染みの題材が描かれ、群青や白緑が鮮やかに残っている。五世紀頃造られた76窟はインド的色彩が強く、『降魔変』などはパキスタン(ガンダーラ地方)の釈迦苦業の像を彷彿とさせる。それに六世紀頃描かれた17窟は、仏教説話が、ルオーばりの力強さで迫ってくる。それは敦煌や他の千仏洞でも多く見られた、あの太い隈取りによるのだが、何故か心に潤いを与えてくれる。そして、そんな大きさや、存在感が、自分の表現するものの中に在るだろうかと、考え込んでしまった。暫くは、懐中電燈を消し瞑想-----。
 外に一歩出ると、太陽の光で、目が眩みそうになり、乾いた砂が風に舞う。薄ピンク色に染まった岩山に、仏教の痕跡は確かに砂漠の道、シルクロードを通って日本にまで至ったのだと実感出来る、多くの手技が残されている。この大きな砂漠の中で人は何ということをしてきたのだろうか。人の力の何と小さいことか。人の力の何と大きいことか。
 キジル千仏洞はムザト川の上流にあるところから、『上の千仏洞』とも呼ばれ、対して下流にあるところから『下の千仏洞』とも呼ばれるのが、クムトラ千仏洞である。ここには、玄奘が講演したという講教台があり、古亀茲文字や供養菩薩が、或いは伎楽天が五世紀から七世紀の栄華を今に伝えている。もちろんなどという副詞は使いたくないが、勿論ここでも痛々しい傷だらけの姿を顕にし、目を覆うばかりである。巨大な岩壁に穿(うが)たれ、ポカンと口を開いて、間の抜けたような遺跡の穴を、水をたたえたムザトの川面が写し出していた。
 その他、塩水渓谷を奥へ進むと、唐代に造られたといわれるキジルガハ(克孜爾※3[「※3」は「乃」の下に「小」]哈)千仏洞がある。ここもイスラム教徒か解放軍の徹底した破壊の跡で、惨憺たる荒れ方である。こんな所へ、わざわざ足を運ぶ物好きは、僕のような、よほど気まぐれな旅人か、仏教でも研究する学者位のものだろう。時に宗教や政治は、何とむごい力を持つことか。壁では僅かに残った飛天が悲しそうに、リュートやパンの笛を奏でてはいるが、そのずたずたに切れた弦や管の音そのままに、谷を風が細く、とぎれとぎれに過ぎて行く。別れ際の管理人の黙りこくった姿がやけに小さく見えて、思わず、振り返ってしまった。こんな人里離れた砂漠の中で、どうして、何を食べているのか、余計な心配までしてしまうのは、旅人の思い上がりだろうか。『サラメッティ・ボルンラル(お元気で)!』
 ついでに、途中にある、キジルガハ烽火台の悲しい物語を一くさり。ある時、クチャの国王の姫を旅の占い師が見たそうだ。『姫には災いがかかり百日以内に死ぬ。難を防ぐには、土塔に匿(かくま)うしかない。』と言う。そこで国王は言われた通り、町はずれに土塔を造り、姫を匿った。その最後の百日目、いつもの用意した食事を届けると、その中にサソリが潜んでいて、とうとう命を奪ってしまったそうな。そんな物語を、まことしやかに孕んで、瓦礫た、黄土の肌を剥き出している。その烽火台は、気が遠くなるような青い空の下、ひたすら風化に耐え、二千年の時を見据えている。
 視線を目の前のクチャの町に転ずると、毎朝早くから、音楽入りで思想教育らしき宣伝をしている。この辺境の地に中華思想を送り込んでいるのだろうが、うるさいったらありゃしない。嘗て、西域の重要な軍用地であったことは、今も変わっていないということか。ところが、町は、いたって無頓着の表情で、人々は、どこ吹く風といった具合に無感心。団結新橋あたりのバザールだけが熱気を帯びている。ことに金曜日は盛大で、生憎の小雨にもかかわらず、泥を跳ね上げ、人や驢馬が行き交っていた。オアシスの町のバザールが持つ、独特の喧噪と騒擾が、ここの場面を埋めている。その中で、驢馬の悲しげな目だけが、やけに心に焼き付いて離れない。
 そのバザールから、暫く驢馬に揺られて行くと、ポプラに囲まれた文物保護管理所(博物館)がある。地元の〇・三元の印刷の上に赤いスタンプで十六の数字が押されたチケットを買わされる。何と現地人の約五十三倍。もっとも日本円に換算すれば僅かな額ではあるが。こんな調子で、実に適当に外国人料金は決められるが、こちらへ来てからは、そのことは仕方がないと思えるから不思議だ。亀茲壁画や民族衣装など、この辺り一帯の遺産品を展示しているが、どんなに料金が安くたって、イスラム教のウイグルの人々には、何の意味も持たない文物であろう。誰も訪れる気配はない。四つに分けられた館に、それぞれ掛けられた錠は、重く錆びついていた。
 そう、この目の前の町クチャは、もうもうと立つ砂埃の中に陽炎のように現われて、消えていった亀茲の人々や文化を砂に戻し、その上を、新しいウイグルの人々によって踏み固められている。クチャという名前だけが残されて。

    陽が人を射る
    砂が物を飲む
    そして何も彼もが
    砂に消えた
    さしもの古えの大国も
    死の砂漠の前では
    一粒の砂に書かれた物語
    何も無かったように
    砂だけが在り
    それを飽きもせず
    陽が焼いている
    こんがり焼き上がった砂を
    両手で掬うと
    その一粒
    一粒に
    仏達の顔が在った
    確かに在った
    その顔を
    一筋の風が
    さっと砂に帰した


アクス(阿克蒜)ヘ

 カシュガルヘ向かおうという、その日、理髪店のハサミさばきに見とれ、ついに入ってしまった。今まで、自分で適当に切っていた髪であったが、ここ中国の奥地で散髪しようとは思ってもみなかった。が、実に気持良く、さっぱりとした。それは良いのだが、クチャの青年宜しく、格好良く仕上げ過ぎて、鏡に写る我が姿に赤面。宿に戻り、その型≠取り除くため、すぐに洗髪。旅装を整えて、バスターミナルヘ向かう。前日、前売りは出来ないので、当日午後出直すよう言われ、約束の時刻にやって来たのだが、三時間待っても、カシュガル行きは来ない。まして、寝台バスなんて一台もない。仕方なく、アクス行きのバスに乗る。オアシス郊外はポプラ並木が続き、麦畑が金色に輝いている。が、そんな豊かな表情が消えるのに、そう時間はかからない。何時もの砂の世界が、無表情で広がっている。う〜、それにしても景色が変わらない。そんな無愛想な荒野に突然の転調が起こる。黒雲が沸き、稲妻が雄大に空を翔(かけ)る。暫く走ると、雨が周りの景色を遮る。雨が窓を打ち、運転席のワイパーは頻りに、ギーギー音を立てて水を撥ね除ける。隙間だらけの窓では、当然の結果ではあるが、バスの中は水浸しになる。僕は持っていたテープで目張りして、周囲の人に喜ばれたりしたが、それにしても今までの単調なリズムが、嘘のような大不協和音だった。二時間程の大活劇も終り、雲が切れる頃には、あちこちに即席の湖が出現した。広い砂漠の窪地に水が集まり、大きな水面が出来上がり、覗き始めたばかりの日の光を銀色に反射している。
 行く手にトラック同士の正面衝突を見た。泥の中に半分埋もれた赤い乗用車も見過した。このシルクロードは、突然の豪雨で、パニック状態に陥ってしまったようだ。そして、この絹の道は脆(もろ)くも糸がきれたように、あちこち寸断されている。雨水が砂と共に濁流となり、高い所から低い方へ自在に移動するのは、自然の摂理に適(かな)って当り前といえばそれまでの事だが。道を横切る、その当り前の泥の川をソロリソロリとバスは渡って行くのだが、数時間走ったところで、遂に動かなくなってしまった。細い一本のシルクロードが、車の渋滞でカーロードになってしまった。前方で、今まであったものよりずっと大きな泥の川が、ダンプカー一台を呑み込んでいた。手前から数珠繋ぎになった車の列は、突然出来上がった長〜い列車にも見えてくる。さながら銀河鉄道の昼≠ニいったところか。もっとも、こちらは、ちっともロマンチックではないけれど。ここを三時間余りかけて、やっと通り抜け、ホッと一息つく頃は、日が西に傾き始めていた。やれやれといったところだが、その安堵感も、すぐに溜息で吐き出す始末。今度はパンクなのである。そこで又、タイヤ交換に小一時間も費やすことと相成った。そのスペアタイヤだって、オンボロである。うんざりして地べたに、腰をおろすと、疲労感だけが襲ってくる。いかに旅慣れた土地の人といえども、顔に出た疲労の色は隠せない。満天の星だけが唯一の慰めになる。その星をいっぱい頭上に乗せ、鈍いエンジン音と共にバスが再び走り出したのは、夜も十時を回り、もうとっくにアクスに着く時間であった。とにかく動いてさえいれば目的地には着ける筈だ。気を取り直して乗り込んだのだが、このバスときたらありゃしない。片方のライトが消えてしまったのだ。人命第一は有難い限りではあるが、修理に五十分はないと思うよ。むろん一番大変なのは、二人の運転手と、一人の助手。いろいろな小道具を懐中電燈で照らしては駆使するのだが、暗闇での電気系統の作業は捗どらない。何とかライトが灯る頃には、乗客も疲れはピークに達していた。よれよれになって辿り着いたアクスのバスターミナルは、町の南東のはずれで、夜中も夜中、二時近くになっていた。町中まで車では、二十分近く掛かる。もうホテル探しなんて、いっていられない。寝られる所ならどこだっていい。
 インドでは、真夜中に着くと、その駅にある宿泊所で何度がお世話になったけれど、こちらのバス乗り場では、近くに交通賓館がある筈だ。それは五分位で見付けることが出来たが、大声で呼んで、やっと出てきた受付の態度は悪い。バスもトイレも共同のものしかなく、おまけに汚い。それでも開いていただけは有難いというもの。ただ、ドミトリーだけは、盗難の危険があるので避けて、三つ並んだベッドの一部屋を占領する。壁は禿げ、薄汚れているが、そんなこともお構いなし。余ったベッドは、放り出した荷物に当て、とにかく死んだように眠った。
 中継点としての、この地で、長居は無用。早速カシュガル行きのバスに乗り込む。同じオンボロバスでも、前回のとは違い、順調にすべり出す。ポプラ並木を風のように縫って行く。などと素敵な表現もしてみたくなる程スムーズな出足だ。が、しかしである。羊の群が消え、生気の失せたラクダ草だけが見える頃には、いつものように、バスは小刻みに震え出す。スピードは一向に上がろうとせず、外では、タクラマカンのワンパターンが、繰り返えされる。その風景を、こちらも、いつものようにボンヤリ眺めていると、ふいに、パンパンパンと鳴る音で、我に返った。中程の席のお兄(あに)いさんが、三度大きく手を打ったのだ。何やら口上を言い、やおらトランプを三枚取り出した。占いでも始めるのかと思いきや博奕である。目の前のおばさんが最初の餌食。初めは少額を勝たせて、最後に大枚を巻き上げる、お決まりのシーンが演じられる。こちらは白けてくるが、車の中は、だんだんエスカレートし、物見遊山が重なり合う。結局、中年の婦人が大敗けしてピリオド。仕掛人の勝利は、当然最初から決まっていた。装身具で身を固めた、厚化粧の奥さんとは対照的に、汚れた地味な黒服をまとったウイグル帽の主人が支払い人。口惜しそうに、婦人の付けを差し出す、皺くちゃの指先が、ブルッと震えた。そう言えば、二十年以上も前の話になるが、あのダヴィンチの設計したミラノ城の脇で、マフィアらしき黒づくめの出で立ちが、観光客相手に、三枚のコインで何やらやっていたっけ。勝負は勝ち逃げに限るとばかり、三人組は途中下車。グループ(僕は三人が仲間だったとは、下車するまで気付かなかった)で演じられた一時間程の余興は、数人だけが高い料金を払い、他は多数の無料見物人を楽しませて、幕は降ろされた。ドストエフスキーの『賭博者』ではないが、人間の欲と心理が、モノトーンの風景画に色彩を与えた。
 しかしその余韻も、繰り返される単調な景色の中に消え、何も無かったように、時間とバスだけが、ゆっくりと動いて行く。が、時に、バスとトラックの正面衝突で石炭が、道を塞ぐのにでくわしたり、時に急な雨の帯へ首を突込んだりと、起伏はないことはないが。
 どれ位経ったろうか。つい居眠りをしていたのだが、腹が立つ程バスが揺れ始め、目が覚める。と、遥か遠く、天からの一筋の黄色い光が見えるではないか。それは、天上から降りた五光のように、美しい。近づくにつれ、その光の正体は、判ってくる。その光は、何十本にも増え、次から次へと、天に向かって砂を巻き上げている。竜巻だ。このタクラマカンの竜は、黄金色の体で、あちこちで一斉に天と地の壮大なコミュニケーションをしている。嵩高な思いに駆られたのは、僕一人だけだろうか。タクラマカンはタッキリ(=死)とマカン(=無限)の合成語だという。その言葉のままに、生命を拒み、何時、どんな技で旅人を死に追いやるかわからない過酷な砂の世界。人々はそれを神の世界と呼ぶのだろう。そんな中を、よろけながらだって次の目的地に着けることは、すべてに感謝せずには、いられない気持ちになる。その目的地、カシュガルも、ポプラ並木が見え始めると、もうすぐである。


喀什(カシュガル)

 西新彊最大の町カシュガルも驢馬車に乗ったウイグル族が、バザールに集い、人々の熱気は土埃を巻き上げている。そう、ここは中国の西の果て、トルキスタンの町。そんな最果ての地にまで、中国の近代化政策は押し寄せ、近代ビルが建てられ始めてはいるものの、人々の心はイスラム文化を誇りにし、モスクを中心に栄えている。その昔、疏勒と呼ばれ、玄奘も、マルコ・ポー口も訪れた。この大きなオアシスの町は、今まで、どれ程多くの旅人を癒したことか。
 カシュガルは『緑のルリ瓦の家』・『玉の市』といった意味だと言われるが、ホージャ墳など、見ると頷けるものがある。香紀墓とも呼ばれるこの墓にも悲しい物語は付いていた。
 イパルハンは、アッパク・ホージャの孫で、ヤルカンドで生まれ、二十六歳の時、清朝の乾隆帝に召され、二十六年間宮廷生活を送ったのだと。彼女からは、香水もつけないのに、砂ナツメの花の香が漂っていて、香紀と人々に親しまれたそうな。亡くなった後、特製の輿に乗せられ、百二十四人に担ぎ継がれ、三年かかってこの地に戻ったと。その死も皇帝の求愛を拒み続けて、自ら選んだのだと語られてきた。事実とは違う、こんな物語の中に、地図上の中国でありながら、中央権力と現地の人々の思いのずれが見て取れるではないか。
 現に、馬鹿デカイ毛沢東の像が、市人民政府の前に聳(そび)え、右手を高々と天に翳(かざ)している。しかし人々の生活とは、掛け離れ、クチャで感じたのと同じ違和感だけがそこに在る。漢民族の中央からは、余りに遠過ぎるのは、地理上のことだけだろうか。町の中心には、黄色い煉瓦造りの、エイティガール寺院が、人々を迎え、ジュータンの上ではイスラムの教えが説かれる。そしてコーランは、静寂の中、流れるように唱え、合わされ、響き渡っている。エイティガールとは、ペルシャ語で、『祭を行う場所』を表し、その名の通り、事有るごとに、人々は集り来たる。
 このモスクの周りには、多くの露店や土産物屋が並び、シシカバブーやパーアールムーデン(肉まんのようなもの)の羊肉を焼く匂いは、そこら中に立ち込めている。大きな鉄鍋には、何十人前もの抓飯(ジュアハン=ニンジンピラフ)が作られ、麺の店や喫茶店が食欲を刺激している。たまりかねた人々は、それぞれ好きな食べ物を口に頬張り、くったくなく話し込む。そう言えば、さっきから、三時間も寺院の階段に腰を下す、回族の長い白髭のお爺さん達。すっぽりと茶色のチャドルを被ぶったお婆さん達。日本とは、随分、時間の流れ方が違うものである。
 民族工芸品や雑多な品物が売買される一角には、それを創り出す職人達が集まり、腕を競い、ウイグル帽子はもちろん、ナイフ、楽器、金属細工、衣類といった日常品は、ほとんどが、手で作り上げられている。ここには豊かな時間が流れていて、その時間の中を、ブラリと歩いている僕も、豊かさに包まれている。旅人の疲れは、こんな時に癒えていく。そして何より、子供達の生き生きした、元気な姿がいい。挨まみれの民族衣装も、輝いた目に、何とぴったりして、美しいことか。
 しかし旅人は、そんな時間にばかり浸っていられない。パスポートを紛失(結局、ベッドの下に落ちていて、一件落着)して、顔面蒼白になったり、両替の為銀行に行ったり、土産品を航空便で送ったり、それから洗濯をして、ビザの延長手続きのため公安に行ったりと、結構忙しい時間も持たなければならない。それに三日間も雨が続くと、今までの暑い日々が嘘のように寒く、防寒コートの世話にならなければならない。おまけに、町中の泥に付き合っては、閉口する始末である。もっともそんな雨も上ると、すぐさま熱い日射しが戻り、泥は乾燥して挨となって舞い上る。いつもの黄ばんだ風景に戻るのは、舞台の背景画を変える程に簡単なことだった。
 郊外に三仙洞という仏教遺跡がある。紙に書いて運転手と交渉。OK、と言うので乗り込んだが、方向違いもいいとこ。初めはホージャ墳へ向かうし、漢字も英語も全く駄目とくる。何としたことか。結局初めての場所で、知らないという。仕方なく、行く先々で、いろんな人に訪ねながら行く。距離も分からないのに、よくも金銭交渉に応じたものだ。一時間以上走って着いたチャクマク河は、只々広く、その向こう岸の断崖絶壁に確かに三つの洞が見える。やっと川を渡り近づいたが、とても登れる代物ではない。九十度の壁面の遥か上の方に穿たれた三つの洞を、指を銜えて見上げるばかりで、中の様子を知る術も無し。こういう無駄足も、現場に立つと、満更悪くないと思えてくるから不思議だ。帰りの道々、こんな所に、何故、どうやって造ったんだろうと、取留めもなく考えてみるが、ガタガタ道の揺れと暑さで、頭がぼんやりしてくる。考えるという行為が、ここでは現実離れしてしまうようだ。


ホータン(和田)

 カシュガルの長途汽車站(バスターミナル)で、ホータンに向かう外国人は一人もいない。チケットは、やはり外国人料金を要求された。一応抗議して、少しだけ値切ったが、現地人の二倍といったところ。余りの暑さで、夜行バスを利用することにしたのだが、一寸した下痢で、不安を抱えての出発となった。バスは一時間余りで水田地帯を抜け、ラクダも行き交う砂漠の中へ入って行く。カラコルムの雪が夕日に映えて美しい。十時を過ぎて、やっと今までの日の光が、星のそれと交替しはじめ、暑さから解放される。夜中の一時近くに突然の検問があったり、エンジントラブルで駄々っ子のように、動かなくなったりすることもある。そうなったら、少しの間、そっとしておくに限る。砂漠の真ん中で動かなくなっても、降り立てば、そこは星の世界。今にも手の届きそうな北斗のまわりに、何と多くの星があることか。そして星々の何と大きいことか。日本では想像だに出来ない星達が、空いっぱいに輝いている。北斗欄干(らんかん)たり。疲れまくる旅の移動に、星だけが心を慰さめてくれる。
 この夜行バスも、御多分に漏れず、たっぷりと時間をかけて目的地を目指す。それにしても、何と座席の狭いことか。人々は満席の中、平気で高鼾だが、とても眠れたものではない。夜中の二時半頃、食事休憩となったが、お腹の調子を考えて、カロリーメィト一つと水分の補給のみにする。竈(かまど)では赤々と火が焚かれ、次々に薪がくべられる。裸電球の下では、食事の世話をする人が忙しく立ち回っていた。鈍いエンジン音がして、再び動き出すと、冷たい隙間風が、あちこちから入り込む。何度も役立った防寒コートの出番に、砂漠気候の非情さを体感しつつ、浅い眠りに入っていった。
 十数時間のバスで辿り着いた和田(ホータン)は漢民族や、インド人の移民によって始まり、BC二世紀頃、大宝于※4[「※4」は「もんがまえ」の中が「眞」。読みは「てん」]国が建てられ、六世紀頃トルコ化し、十一世紀には、それまでの大乗仏教に変わってイスラム教が、取り入れられた。『絹の都』と呼ばれたこの地は、玉の産地としても有名であった。
 このオアシスの水源は、崑崙山脈の雪解け水だと聞くと、不思議な感動を覚えずにはいられない。崑崙山といえば、漢代には、西王母伝説と結びつけられたり、時代が下って、道教や仏教の理想郷が想定されたりして、単に玉を産する山と言うより、聖山の風格を持って人々に慕われてきた。その美しい雪の崑崙の嶺々の向こうには、チベットが静かに隠れている。この山の夢物語は、井上靖の『崑崙の玉』などに任せて、古えの于※4国へ遡ることにしよう。
 インドの帰路、玄奘三蔵が、やはりこの地に立ち寄ったことは、『西域記』に見て取れる。三友量順氏の『玄奘』には、瑜伽論や倶舎論、攝大乗論などの論書を大勢の僧侶のために講説した。国王はじめ、僧侶達は三蔵に帰依し、日に千人以上の人々が聴受し、七、八ヶ月がまたたくまに過ぎた≠ニ書かれている。もうここから長安までの帰りの旅は、時の太宗が国々に勅命を下し、師のために、乗り物や人を手配し、敦煌の役人を流沙まで迎えに出させたという。この歓迎ぶりは、旅立ちの時と比べると天地の差がある。もっとも彼には、世評の変化などどうでも良く、法を伝える事が可能になったことが、何にも増して嬉しかっただろう。
 その盛んなりし頃の仏教のことを少しだけ書く。それは、どうもこの地で『華厳経』などの大乗経典が生まれたらしいということ。一切の現象は互いに相対的に依存し合うという重々無尽≠ニいう考え方は、一即一切、一切一即という哲学的表現を持って伝えられる。その一は、玄奘の漢訳といわれる、大般若経の無という考え方と矛盾しない、深い数字の表現である。これ程単純な数に、不変の哲理が述べられているものの、近代を発展させた数の捉え方とは、何と掛け離れた世界であることか。古えの于※4国も、その宗教も砂漠の彼方に埋もれてしまったが、絹や絨毬といった手技が、他民族になっても引き継がれ、ホータンの今に生き続けている。『于※4』(うてん)の音は、秦、漢時代では、ホータンであったらしく、現代中国語が、やさしく、今の『和田』の字をあてがったようだ。
 さて、その現代の和田(ホータン)の町に出てみよう。町の片隅に文物展覧館があり、ニヤ遺跡のミイラや、ホータン一帯の仏教遺跡の出土品が、前記した歴史の足跡を示していて、ここだけは別世界である。しかし、二階にある、薄暗い、ちっぽけなこの文物館からは、ヨートカン遺跡やマリカワト故城の往事の華やかな姿は、浮んでこない。
 階段を降りると、もう、太陽と砂とバザールが待ち構えている。もっとも今まで見てきたどのオアシスの町でも共通して目にする光景ではあるが。ことにバザールの規模は最大級で、東郊外の貿易市場あたりは、どこからこんなに、人や物が集まってくるのか、首を捻(ひね)ってしまう。周囲は死の砂漠である。ひょっとすると、その砂に消えた古人が亡霊となって、こんな姿を演じているのかしらん。と他愛ない妄想にも囚(とら)われてしまう。我ながら呆れ返った想いであるが、それ位、外の世界と内の世界、過去と現在が分かれている。それを繋ぐ道が見えないものだから、亡霊に登場願った次第であるが、これは単なる挿入句。それにしても、驢馬や羊の数も多く、イスラム様式の門を潜(くぐ)った市場は、活気に満ち溢れている。そして、白玉河と墨玉河に挟まれた玉の町らしく、土産品店には、たくさんの玉が並んでいた。
 そのバザールでもバス乗り場でも一人として外国人を見なかったが(今まで、ウルムチとカシュガルで数人会っただけ)、ちょっぴり訝しく思っただけで、大して気にも止めず、独りシシカバブーを頬張っていたものだ。ハミ瓜なんども、呑気に食べて、いざ移動という段階で事が呑み込めてきた。まずニヤ方面のバスは、人が集まらないので、すぐには出発出来ない。まして、チャルチャンからチャルクリク方面の西域南道は、今の時点では、分からないと言う。それに、何と愚かなことか。ロプノールで核実験があったのだ。もっとも体力も、そろそろ限界に近づいてきたので、帰りは、週二便あるという飛行機でウルムチに向かえばいいと、気楽にホータンまで足を延ばしたのだった。ところが、しかしである。CAACオフィス(中国民航售票処)には、な、な、な、なんと『暫停』と二文字、貼り紙に大書してある。それ以外何もない。扉は、押せど、叩けど、ビクリともしない。もちろん、電話だって、誰も出ない。暫しボー然。また、カシュガルまで戻らなくてはならない。あのバスで。そして、あの時間を。それだけの時間バスに揺れれば、西域南道をニヤを越えチャルチャンまで行くのと同じだ。そうすれば、タクラマカン砂漠をほぼ一周してしまうことになるが、旅の目的は、それではない。タクラマカンを一周するだけなら、体力の問題は残るものの、もう終えている筈だ。とにかく、チャルチャンには背を向けることにする。
 気を取り直してカシュガルを選択する間、少なからず気持ちに混乱が生じ、ふさぎ虫に取り付かれていた。来る時は夜行を選んだので、せめて、戻りは、昼の便にしよう。そんなわけで、早朝の出立となったが、驢馬車もタクシーも見当たらない。さてさて、重い荷物を背負ってバスターミナルまで歩くはめになってしまった。『どっこいしょ。』である。ところで、ターミナルの窓口でのこと。いとも、すんなり切符が手に入る。しかも外国人料金は請求されない。同じ道程なのに、来た時の半額以下である。しかも移動のたびに、保険金(少額ではあるが、)を要求されたり、ホテル名や名前を書かされたりといった面倒も一切無し。万事、いい加減な料金体制に思える新彊地区では、こんな事だってある。ささやかではあるが、ちょっと得した気分。  帰りのバスもオンボロ(もう少し気の利いた修飾語を付けたいものだが、思い当らない。ボロはボロである。)の車。運転手は二人で、その娘さん一人が付録でついている。この付録は、七歳の気の強い女の子。カシュガルまで、何かと僕に興味を示し、僕のメモ帳に、数字や絵などを書いては喜んで遊ぶ。ガタガタ道で、線はまともに引けないけれど、大した問題ではなさそうだ。疲れれば眠り、醒めれば遊ぶといった他愛ない少女であるが、瞳は、あくまでも澄んでいる。お陰で十五時間近くもかかった移動中、退屈しないですんだ。この子の父親は、ウイグル帽子を被ったイスラム教徒で、運転中でも時間が来ると、もう一人と席を替り、何やらブツブツとお祈りを始める。どうやら、相方は、イスラム教徒ではないらしく、前もって、お祈りに支障のない組合せになっているのだろう。車は、パミール高原を左手に、ヤルカンド(莎車)のポプラ並木を越え、再び砂漠の中を小刻みに震えながら、進んで行く。相変らず、休憩や検問や故障やと、書くのもいやになる位、よく止まるけれど、確実に移動はしている。見慣れた風景が出てくると、そこは嘗て知ったる二度目のカシュガル。車を降りる時、手を振る少女の目に小さく光るものを見て、後髪をひかれる思いで、『ハイル・ホシ』を言う。出会いと別れ。それを旅という。


再びカシュガル・再びウルムチ

 ここからは、文明の※5[「※5」は「角」へんに「力」]斗雲(きんとうん)、飛行機で一気にウルムチだ。その飛行場での出来事。出発時間が遅れ、少々不安になっている所へ、どかどかと日本人のグループが、例によって、旗を先頭にやって来た。一ケ月以上、一人の留学生以外、日本人に会っていなかったので、懐かしさも手伝って、中の一人に話しかけてみる。何と奥さん連れの僧侶の一団だった。聞くところに因ると、永平寺で指導する立場にあるという彼は、これから、ウルムチ、北京と飛行機で帰るそうだ。仏教伝来を訪ねての旅とか。これら大都市の、どこに仏教の足跡を訪ねるというのだろう。しかも全行程、十日足らずで。何〜んか、いやになっちゃう。仏教伝来の道が、スカイロードなんて聞いたこともない。それに仏陀の言葉にも、犀の角のように一人歩め≠ニあるではないか。少なくとも、クチャの仏教遺跡を歩き回った旅人の目には、この集団は、何とも滑稽に写ってしまう。そんな坊さん連の頭には、すべて帽子が乗せられていた。日本の形骸化した葬式仏教を垣間見る思いで悲しくなってくる。止まれ。他人様の事を、くだくだ言うのは、止めよう。それより時間の遅れが気になっている。
 一日一便しかない、ロシア製の飛行機は、夜の十時を大きく回って、やっとその重い機体を持ち上げた。どうも※5斗雲のようには、いかない。月の光が、天山山脈の皺々の岩肌を、黒いシルエットで沈め、白い雪だけを、怪しく浮かび上がらせている。時折、湧き立つ雲に機体を大きく揺るがして、ウルムチの空港へ滑り込んだのは、夜中の十二時過ぎになっていた。例の坊さん達のお出迎えのマイクロバスを横目に、最終のリムジンバスヘ乗り込む。三十分位は飛行場で時間を取られ、町の中心へ放り出された時は、時計の針は一時半。さて、さて、宿探しである。途中、工事で道路が寸断され、大きく迂回しなくてはならない。リュックの重さは腰にまできている。どうも、ウルムチでは遠回りするように出来てるらしい。夜道をさ迷ってホテルに着いたのは夜中の二時。とにかく風呂。とにかくベッドである。疲れ過ぎて、倒れ込んだものの、その夜は、なかなか寝付かれない。疲れが、僕を、一種の興奮状態に落ち入らせたようだ。そして、夜も白々と明ける頃に、泥のように眠った。
 新彊ウイグル自治区の都、ウルムチは、かのヘディンが訪れた頃の悲惨な戦いの姿は消え、近代的建物が立ち並び、新しく生まれ変わっているものの、旅人の心を休めるには、どこかよそよそし過ぎる。そう感じてしまうのは、僕が、古いものや、素朴なものの声を聞きたがっているせいかもしれない。ともかく、ここは旅の中継点。西安までの二泊三日の列車の旅が待っている。疲れた頭と体では、余程、ここからも飛行機に乗ってしまおうとも考えたのだけれど、今までの旅の出来事を反芻するには、空の数時間では短か過ぎる。そんな思いに駆られると、僕は、ウルムチ駅のチケット売り場の列に加わっていた。ここで前に伏線を張っておいた場面が登場する。
 十時に開く窓口は、軍人や教師、要人、それに外国人といった特定の人のそれで、僕の前に九人並んでいた。九時半に到着して、十人目では、まあまあかと、ひとまず安心する。他の窓口は、四・五時間も並んでいる人々の長蛇の列で、ごった返している。どこか、インドで見かけた駅の様子に似ている。その辺、どうも呑気に構えていた。午前十時。窓口が開くと同時に、先頭の男と脇の男が、何やら言い争っている。初めのうちは、何なのか、呑み込めないでいた。時間がかかるのは、何かの手違いが生じたのだろう位に、のんびりと他の列の人間観察をしていた。のんびりというのは、こちらへ来てから、ごく自然に身に付いた物事への対処法で、一端(いっぱし)に土地の人の時間を持ったつもりでいた。三十分経過して、ようやく事情が呑み込めてきた。やっと二人目になったかと思う間もなく、窓口の右の傍らに腰を下していた大柄の男が、やおらその窓口に顔を突っ込む。それから、大声で切符売りと何やら遣り取りをしている。十五分位はゴチャゴチャとやって引き上げていく。すると、左側にいた猛者男がそれに続く。割り込みである。それが、どいつもこいつも、プロレスラーみたいな奴で、彼ら同志で喧嘩したりしながら、十数枚の切符を入手する。腕力の強いのが先である。真面目に列に加わった人は、只呆然とするばかり。といって、このまま手を拱(こまね)いているわけにもいかず、駅員や、公安に文句を言う。ところが、二言、三言注意はするが、そそくさと遠くの方へ行ってしまう。お決まりの巡回は、ポーズに過ぎない。ここまで並んでおきながら、引き返すのも癪にさわる気がして、その場を動けなくなってしまった。もう現地時間の常識なんて糞くらえだ。窓が開いて三時間。そう、十人目の人が、列に並んで一枚の切符を手に入れるのに三時間三十分もの時間が必要だ! おまけに要求した切符は売り切れて無く、明後日発の、それも夜中の二時に西安に着くものしか無いという。買えただけは増しというべきか。窓口の内側でも、駅員同志頼まれた切符を何枚も渡しているではないか。万事、出鱈目である。何のことはない、手数料を払ってCITS(中国国際旅行社)にでも頼めば済むことだが、そうしたら、きっと、さっきの腕まくりの男達の活躍するところとなるのだろう。真冬と真夏しかない残酷とも思える自然環境で生きる人々の、素顔の一端が見てとれる。


車中

 二十二時五十分に出発する特快98次鄭州行列車は、ほぼ定刻通りに動き出す。ファーストクラス(軟臥)といっても、どこか汚れて埃っぽいが、コンパートメントに僕一人きりで、あの切符の取り合いが嘘のように静かだ。それに、硬座の一般席に比べれば、ここは、まさに天国である。数年前のインドで味わった地獄のような車内は、ここにもあることは充分わかる。事実、お湯を汲みに行く途中でその光景は目に飛び込んでくる。そこでは、蒸し風呂の中に人々が重なり、子供が泣きわめく。大人達は博奕に興じ、食い散らかされた残飯が、あちこちに飛び、トイレの汚さたるや、目を覆いたくなる。同じ列車で同じ時を過ごしているのに、そこでは、全く別の世界が演出されている。それは、どこかしら人生にも似て残酷でさえあるが、人々は、それぞれの場面の中に世界をつくることで、安心を得て、食べ、飲み、泣き、笑っている。
 外のゴビ灘は、気の遠くなるような荒れ地を空の境にまで横たえ、たまに見える集落や人影を、またたく間に、その内に消し去っていく。この二本の平行した鉄の道は、昔のシルクロードと重なっているのだろうか。もちろんシルクロードは、一本の決まった道ではない。時代により、場所により、何本もの通商路が盛衰をくり返した筈である。今、内陸アジアの地図に、それを正しく書き入れることは出来ない。しかし起点と終着点だけは、はっきりしている。一方は、イスタンブールか、ギリシャ、ローマ。もう一方は長安、洛陽である。その起点(或いは終着点)に向かう列車が嘉峪関の駅にさしかかる頃、日は西に傾き、その嘉峪関の楼を左手に、赤く染めていた。言わずと知れた『天下の雄関』で、実に六千キロメートルに渡る万里の長城の最西端である。ここは明代の名将、馮勝(ひしょう)が、元の軍隊を征討した際築いたとされ、もう低く立ち消えそうな長城の最後の姿が、この嘉峪関楼へ続いていた。
 武威を過ぎた辺りから、外の景色は、砂漠の姿が消えはじめ、荒涼としてはいるものの、緑の草が生え、人々の生活が見え隠れする。
 それまで一人きりで、実にゆっくりと、タクラマカンの旅の思いに浸っていたが、途中、上海鉄道に勤める梅さんと、邯鄲の雪馳集団有限公司で経理をしている徐さんと同席することになった。旅の反芻作用は中断したが、どちらも親切な人で、思いがけない出会いに話に花を咲かす。いや、咲かすは嘘である。片言の英語と、僅かな漢字の遣り取りでは、蕾にも程遠い。しかし人には、便利にも、心があり、それなりに、その時の会話は進むものだ。中国の馬鹿高い山や桂林の山水の世界など、観光案内しきりで、至って平凡な話に、彼らなりに日本への思いが、僕なりに中国への思いが広がったのだと思う。それに邯鄲の人がいた事で、故事の邯鄲の歩み≠ノ触れると、意を得たりと喜んだ。燕の国の田舎者が、邯鄲の人達の品の良い歩きを真似たばっかりに、今までの歩みさえ忘れ、這って帰ったという、漢文で習った、あの話。断片しか覚えてないけど、中国ならではの話というもの。邯鄲と言えば、僕の歩いてきた砂漠の遺跡達は、飛ぶ鳥を落とす勢いで栄えた王国の一瞬の夢物語。邯鄲の夢≠ノ過ぎないように思えてしまう。こじつけに近い偶然の語呂合わせであるが、夢≠フ方は、どうも実感を伴っている。
 日も高く、昼食をとる頃に、大黄河の見える蘭州の町に着く。お腹がすいていたせいか、クチャやホータンで食べた蘭州牛肉麺のことを思い出してしまった。真白い大きな暖簾に、朱で※6[「※6は「たけかんむり」に「闌」]州牛肉面(ランジョウニュウルウメン)と真ん中に大書してある店のそれだが、牛肉に香草と辛みがきいたラーメンで、とても美味しかった。もちろん、お店によって辛過ぎたり、麺の太さや腰が違って口に合わないものもあったけれど、出来たての美味しさが思い出され、ここで降りて本場物を食べてみたくもなるというもの。四十パーセント、気持ちが揺らいだ(というのも、ここで降りれば、炳霊寺石窟に行ける)が、通過して、先を急ぐことにする。この辺の判断は、疲労の度合だけで、どちらへでも転ぶ感じだ。少々疲れ過ぎた体が、好奇心の芽を摘んだ。中の喧騒や心の葛藤など、どこ吹く風で、列車は、シルクロードの終着点、長安(西安)に、ゆっくりではあるが、しっかりとした足取りで進んでいる。そして、その終着点は、今度の旅の終着点でもある。
 夜中の一時半頃、車掌が、もうすぐ西安であることを告げに来てくれた。改札の時、行き先と時間を確認し、眠っていても大丈夫、起こすからと約束してくれたのだった。シートに横になって三度目の夜を迎えたけれど、やはり心配で寝付けたものではない。梅さんは仕事で途中下車し、残った徐さんは、上段のシートで眠っていた。
 その頃になると、電灯があちこちに点り、高いビルもちらほら姿を現しはじめ、大都市が近いことを感じさせる。窓を過ぎる明りの中に、ぼんやりとタクラマカンの物語が、走馬燈のように浮んでは消えて行く。ふと気が付くと、徐さんが室内灯のスイッチを入れ、笑顔でこちらに手を差し出した。寝ていたとばかり思っていたが、西安で起こしてくれるつもりで、横になっていただけだったようだ。背負ったリュックの重さは、親切がいっぱい詰った感じで、心地よい。堅い握手で別れを言って、プラットホームに降りた時は、夜中の二時を少し過ぎたところ。今までの長距離を、ほぼ時間通り走り抜いて、到着したんだなあと、妙に感心してしまった。日本で当然と思っていることにだって、不思議なことは、いっぱいあるが、そんな当り前の事だって、状況によって、心を動かすものもあるというものだ。なかなか、日本の中では気付かないけれどもね。


 西安

 夜の西安駅は、橙色のライトを浴び、古典絵画に閉じ込められたような色調を帯びていた。すぐに鉄道の服を着た青年が来て、僕の泊る予定の宿に案内するという。客引きに決まっているが、眠りたい思いが先行し、つい、ついて行く。しかしどうも方向が違う。案の定、別の宿で、しかもフロントに人はいない。この夜中に何ということだ。三十キロ近くあった、さっきの親切が、急に只の重い荷物に戻り、ズシリと両肩にくる。彼は何とか手数料を手に入れたいのだろう。別のホテルを案内するという。しかしそう付き合ってばかりいられない。駅に後戻りし、待ち構えている客引きを払い除け、自分で探す。正直言って、真夜中の不安はあったが、方向感覚は眠っていなかった。自分独りで歩く≠アの旅の原点に帰れば、それは、いとも簡単に見付かった。もっとも、いつもこう旨くいくとは限らないけれど。三十分程のロスタイムに過ぎなかったけれど、夜中の不安と、体力の消耗が重なり、倍以上もの時間を感じてしまった。ベッドに倒れ込むや、死んだように眠った。このシルクロードの起点、西安は、出発する時には、慌しくて見ることが出来なかった表情を、そこここに見せてくれる。
 曾て、ここは長安と呼ばれ、いくつもの史書に、その華やかな姿が形容され、歴史の舞台として親しまれてきた。秦(都は咸陽)を滅ぼした楚の項羽を、漢の劉邦が倒し、前二百二年、国都としたのが始まりで、中央集権支配の、まさに中央に位置する都として栄えた。以降、魏晋南北朝の動乱期には、洛陽などにその座を譲りはしたものの、隋、唐時代に、再び都として歴史に登場する。
 その唐の都に焦点を合わせると、やはり、玄奘三蔵が、西域からもたらした数々の将来品を二十頭以上の馬で運び入れ、皇帝に謁している姿が浮かんでくる。もっとも、この時、太宗は高麗遠征のため、洛陽の宮にあり、そこでの拝謁となっているが。仏舎利、仏像、経典など夥しい品々と共に、玄奘の姿が、何と輝いていたことか。太宗は、玄奘を見込んで、還俗して、政務の力になってくれるよう願ったり、その事が無理とわかると、東征の道を同行して、西域の話を聞きたいとも言った。遠来の旅で、身体に湿疹があることを理由に、その誘いを丁重に断ったのだが、実際長旅の砂漠や、インドで病気にならないことなど、考えられない。そこで、皇帝の『見聞を著して人々に示されてはいかがであろうか。』という肝いりで、名高い『大唐西域記』が今に残っている。その玄奘を忍ぶには、大雁塔に行ってみるしかなさそうだ。
 西安南城壁、東側の和平門を南下すると、玄奘が、サンスクリット語の仏典を漢訳した、大雁塔は、すぐ目に飛び込んでくる。それは、唐へ続くタイムトンネルの入口が隠れているような暗い窓を、幾つも持って、堂々と聳えている。幾重にもなった楼閣式のその窓に、天空の黄色っぽい風が経文でも運ぶように、吹き込んでいる。確かに、その一室で、今でも黙々と執筆し続ける彼の姿が見える気がする。
 その玄奘を敬慕し、インドに求法し二十年余りを過ごした義浄も小雁塔で、教典の翻訳をしている。密簷式の小雁塔は、大雁塔の北西に位置し、上層の一部が崩れてはいるものの、そこから草木が生えている姿は、どこかほほえましくて、暖かい。この塔のある大薦福寺は、高宗の没後、子の叡宗が、供養のために建てた寺で、日本の天台宗の円仁も足を止めている。日本人との関わりといえば、何といっても七一七年に入唐した阿倍仲麻呂が思い起こされる。玄宗皇帝に仕え、客死した彼の名は、この町の小さな公園の片隅にも刻まれて、治績を今に伝えている。それに空海や最澄といった遣唐船で海を越えた人々も思い起こされる。その様に、長安という名前の国際都市は、古来、どれ程多くの他国の人を受け入れてきたか計り知れない。
 鼓楼(グウロウ)を潜(くぐ)って、暫く歩くと化覚巷清真寺がある。表向きは、全く中国風寺院の態を成し、その門を幾つか進むと、一番奥に、イスラムの祈りの場所が待ち構えている。中は、西安の町では想像出来ない位静寂である。寺のまわりの一角は、この聖院を守るかのように、イスラム教徒(回民)の店が、通りを固めて、工芸品や古美術品など並べている。西安では異色なこの雰囲気も、歴史の断面を見る思いがして、興味深い。
 現代と過去にピントを合わせるのに苦労するのも、古都ゆえの楽しさかもしれないが、今度は、現代の方へ焦点を合わせてみよう。東西南北に門を持つ城壁は、東西約三・五キロメートル。南北約三キロメートル。一周が十二キロメートルあり、六百余年の歴史を持っている。この城壁の内外に碁盤の目のように道が張り巡らされて、その道を、二つの車体を連ねたトロリーバスや、自転車や、タクシーやが、行き交っている。特に城壁の内側は、西安のシンボル、鐘楼(ジョンロウ)を中心に栄え、外国企業が参入し、ファーストフードやホテル、デパートといった現代の建物が、人々を吸収している。一方で、餃子や肉まんの屋台で酒を酌み交わす庶民の姿だって消えることはない。旅人は、どうしたって庶民の方へ身を置くことになる。
 夜も更け、独り酒を酌み、この古都を満喫するのは、満更でもない。宮廷料理も結構だが、餃子はこっちに限る。アルコールが頭を刺激すると、砂漠の事どもが一気に甦り、心地好い酔いの中で、その先のインドの事なども思い起こされる。
 中国的思惟『有』とインド的思惟『無』は酒の中では、ごちゃ混ぜになり、同じ事に過ぎなくなっている。永遠の中で時間を捉えるか、時間の積み重ねを永遠と捉えるか。ふっと醒めると、全く違った両極の表情で離れてしまう。酔うて在り。醒めて在り。しかし、それは一人の人間の中に在る。この問題は、数年前、独りインドを旅した時、どうしても中国の歴史観が気になって、僕なりの答えを見つけたかった事である。そこで、ガンガー(ガンジス川)のガート(沐浴場)に終日佇んで、思いのままをメモした一節を書いてみる。
 この国は何だって日常の中に写し出している。太古から現代までが、同じ時間を過ごしている。もちろん生も死も・・・・・。メラメラと燃えさかる炎の中で、ガンガーに少しばかりの花と共に浸された死者は、もう一度甦る簡単な儀式をされ、少しずつ灰になる。或いは一気に灰になる。ここでの三十分足らずの時間は、人生を復習するには、あっけないとも言えるが、一生は一瞬の夢とすれば、死者にとっては、じれったい時間ででもあるかもしれない。矛盾する想いも、そのこと自体荼毘(だび)に付せば、もはや矛盾は消えてしまう。そして静かにガンガーに帰って行く。

    すべての出来事を
    否定し、肯定する
    風のように
    水のように
    火のように
    旅人も、そのように歩いている
    黄色い土埃に塗れ
    全身で動きさえすれば
    全身で止まりさえすれば
    そのまま詩の中にいる
    そして大いなる地は身じろぎもせず
    大いなる河は死者と生者を包み込む
    その河は
    満天の星と太陽を湛え
    昨日に向かって
    空の彼方へ流れていく

 そして最後に一言、その時の歴史観を書いている。歴史を持たない国。いや、歴史があることに意味を持たない国。中国の司馬遷が、もしインドに生まれ、インドに生きたら、一体、どんな目でこの国を書き上げるだろうか。時を越えて、つまらない想いが過(よぎ)る。カル。このヒンドゥー語の明日という意味は、昨日という意味でもある。と。これは、今読み返しても、恥ずかしい内容ではあるが、ガンガーを前に、あの死者達を前に、素直にでた僕の吐息には違いなかった。自分の詩に注釈を付けるのはナンセンスだが、昨日に向かって≠ニ書いた理由は、時間を輪廻転生で捉えたからである。どうも酔いは、物事を大きく捉えてしまっていけない、思わず、目の前の水餃子を、しっかり二本の箸で摘み、繁々と見つめてしまった。ゆっくり味わって頂こう。
 さて、古都西安の郊外に目を転じてみよう。宝物の箱をひっくり返したように、あちら、こちらに古墳などが残り、歴史の遺産が、ちりばめられている。先ず東には、秦の始皇帝陵がある。周りは、のんびりとした田園風景で、その中の、背の低い緑の木がいっぱい植えられた、何の変哲もない小高い山が、皇帝陵である。当時は、七十万もの人を動員し、今より遥かにスケールは大きく、近づく者があれば、矢で射殺す仕組みまであったという。そんな物騒な話は嘘のようにポツンと佇んでいる陵は、頂上まで道が続き、その石段を登りきると、南に驪山、北に渭水の流れを望むことが出来る。そして、ここからニキロメートル程離れた所に、この陵を守る兵馬達がいる。言わずと知れた、始皇帝の兵馬俑である。発掘された兵馬は、写実性に富み、表情や衣装など、どれ一つとして同じものはない、豊かな表現を持って陳列されている。この数えきれない兵馬達も、発掘されたもののほんの一部で、近くでは、壊れかけた兵士達が、土に横たわり、眠っていた。さすが、万里の長城を築いた皇帝だけあって、権力の大きさは、計り知れないものがある。そんな権力さえも歴史の舞台から消えるのに、そう時間はかからなかったのだから、人の世の何と儚いことよ。
 儚い夢物語といえば、玄宗皇帝と楊貴妃のラブロマンスがある。玄宗の実子である寿王の妻、楊貴妃は、十八歳の時から、義父玄宗の寵愛を受け、唐の没落するなか三十八歳で自害し果てたという物語。その舞台となった華清池は、始皇帝陵から、さほど遠くない所にあり、観光客を集めていた。その他、臨潼県博物館では、青銅器が、半坡博物館では、土器や彩陶が、質の高い内容で展示されていた。
 それから郊外の西には、茂陵(マオリン)、乾陵(チェンリン)といった大きな塚が点在する。茂陵は漢の五代・武帝の墓で、高さ四十六・五メートル、底部は東西二百三十一メートル、南北二百三十四メートルの方形をして、周辺に数々の陪葬塚を持っている。五十三年も費やして造営されたという、この山の大きさは、そのことで疲れ嘆いた人々の、悲しみの大きさかもしれない。又、この周辺には、前漢期の皇帝陵が九つあり、執拗に墓に執着した王達の姿が、ある種のおかしさを持って浮かんでくる。あのガンガーに静かに流されて消えて行く、そんなシンプルな葬儀と、何と隔絶した世界か。何人(なんびと)も死の前には平等であるのに。そんな想いは、乾陵に至って増々強くなる。
 唐、第三代皇帝の墓、乾陵は、中国史上唯一の女帝、則天武后が、夫君の死を悼んで造営したもの。参道は、石人石馬が対をなし、述聖記と無字碑が、楼跡の左右に並んで、人々を迎えている。無字碑は、則天武后の評価を後世に委ねるために、碑文を残さず、無刻のまま、碑を建立したことから呼ばれるが、今は、後世の刻文で埋め尽くされている。落書きの格好の材料となってしまったという訳である。女傑、武后の真価はいかに。
 西綫ツアーのミニバスに乗れば、他に永泰公主墓や章懐太子墓、それに懿徳太子墓、楊貴妃墓といった、墓ばかり見て回ることになるが、食傷気味なので、この辺で止める。
 今まで見てきた遺跡からの出土品は、西安の陜西省歴史博物館に、数多く展示されている。原始時代から、周、秦、漢、魏晋南北朝、隋、唐、宋元明清と時代ごとに区分され、その内容の充実ぶりには、目を見張るものがある。学問的意味を求めて来ている訳では無いので、ここでも作品の解説は省略することにする。僕自身が作品の感動を胸一杯吸い込みさえすれば、ここまで足を運んだ意義が有るというもの。そんな満ち足りた空間が有ることに感謝しながら、館を後にした。帰りにブラリと古書院街に立ち寄ると、日はすでに西に傾き、いかにも中華色といった、赤や緑の極彩色の門を、鮮やかに照らし出していた。その影は、飽くまでも大きく、古えの都の光と影を見る思いがした。
 旅もそろそろ終りに近づいてきた。帰り仕度をしなくてはならない。ほぼ計画通りに辿れた今回の旅は、シルクロードを通って、天竺へと続く玄奘三蔵の足跡とも重なった。インドの仏教遺跡に身を置いた時、どうしても日本に多くの思想的、文化的影響をもたらした道程を、この目に収めたかった思いから旅立ったことは、前に触れた。が、そのことは、取りも直さず僕自身が身に付けてしまった、思考回路の点検作業でもあった。諸々の想いは最後にまとめるとして、付録として、北京のことを少しだけ書く。


付録(北京)

 その日の西安は朝から雨が降っていた。西安の予約切符売り場では、外国人には直接売らないと断られたので、CITSに頼んで入手した。十六時三十五分、列車は時間通り北京へ向けて出発した。行き先は北京、軟臥の下段の席。と注文した切符が、行き先は北京西、軟臥の上段の席。と勝手に変更されていたなどの小さなトラブルはあったが、まずは、順調な滑り出しと言える。そんなことで驚いていたら、中国の旅なんて出来たものではない。下段に席を訂正する時など、女の車掌が、とてつもない手数料を平気で請求する始末。そんなことを跳ね返すにも、余計なエネルギーは必要になるが、独り旅の退屈凌ぎ位に構えて、応対する。そうは言っても、自分が外国人であることで、もどかしく思う時の旅の気分は、余り良いとは言えない。そんな時には寝てしまうに限る。一泊して、暁闇(ぎょうあん)を抜ければ、現在の中国の都は、もう間もなくである。
 北京西駅から北京まで、かなりの距離はあるが、北京は北京である。駅前で、タクシーの乗車拒否にあい、市中心までのバスを探したりする自分の姿は、何とも情けないが、砂漠地帯とは、訳が違う。早速二階建ての定期バスが中心部まで連れて行ってくれる。
 北京では観光客宜しく、天安門(ティエンアンメン)、故宮(グーゴン)博物館、天壇(ティエンタン)と大変な面積を歩き回り、万里の長城では、慕田峪(ムーティエンユー)長城の千段の階段を上下した。それにしても、歩くには、何処もかしこも、広過ぎて、砂漠の疲れを負った身に、足の痛さだけが加算される。ことに明清代の建造物は、大きいからといっても、僕の心はあまり動こうとはしなかった。
 輪タク(人力三輪車)に乗り、大棚欄の下町に宿を取り、琉璃廠の古書画を見、北京ダックなど食べてみても、近代化を目指す現代の中国の首都は、居心地が良い所とはいえない。タクラマカンの想いが心に詰まり過ぎて、この都市のことが、入り込めなくなっているのかも知れない。とは言っても中国歴史博物館は、西安のそれと繋がって、この大陸の長い歴史の重みを示して、心を揺するのである。そろそろペンを持つ手も疲れてきた。付録≠ノ多くの時間を割くことは止めて、旅のことを括らなくてはならない。


旅を終えて

 五月二十六日に家を発ってから約二ケ月程。中国西域の旅を無事終えることが出来た。この紀行文は、自分自身の気持ちを整理するため、自分のためにペンを執ったのだが、表現力の拙さから、西域の苛酷な旅の事など、案外、あっさりとしたものになってしまった気がする。又、旅の道程を詳しく記すとなると、今の倍以上の紙数が必要になるが、その事に余り意味があるとは思えないので、これ位にまとめた次第。
 時代によって幾筋にも作り変えられてきた、気の遠くなるようなシルクロード。その道端に腰を下ろし、遥か彼方のイスタンブールやローマの遺跡を思ったりもした。フォロロマーノの遺跡が、突然高昌故城のガレた遺跡に浮かび上るなんて無茶も想像上では自由である。そう言えば二十年以上も前に見た、エンタシスの柱や凱旋門といった立派な建造物は見当たらなかったものの、文明が栄え、滅んでいった時に残す、共通の表情がそこには在った。
 今回の旅は、自分のために、勝手気儘に出た旅である。そんな旅の成果云々など、簡単には言えない。無責任な言い方かも知れないが、生きることへの問い掛けの中で、新しい事物に触れた事は、確かである。その事は、きっと僕自身への養分として蓄積されたと思うし、新陳代謝にも繋がると思う。そう思う事しか、今の僕には出来ないのだが。
 それから、今回の旅では、しきりに、インドのことが浮かんだ。それは、前にも書いたが、中国的思惟の『有』と、インド的思惟の『無』が、どうやって繋ぎ合わさったのか、頭脳ではなく、体で理解したかったからに他ならない。それに宗教と芸術との関わりも念頭にあった。しかし、今まで出会った教会に集うキリスト教徒、或いはユダヤ教徒達。生命を輪廻転生として受け入れるヒンドゥーの人々。寺を持ってしまった仏教徒。ひたすらアラーの神に祈りを捧げるイスラムの人々。そんな人々の姿からは、特異な宗教観しか見て取れないけれど、大自然の中で、素直に死を見つめる時、生は浮かび上がってくる。その時の生は、死と対立はしない。その自然とは、時に砂漠であったり、ガンガーであったり、空の星であったり。いやいや、もっと推し進めて言えば、目の前にある、ありとあらゆるもの全てであったりするわけです。確かに、大自然や宇宙の中で、人間は小さく虚しい存在でしかない。しかし、その小さな人間の中に自然や宇宙がある。誤解を恐れず言ってしまうと、人間は宇宙である。やはり誤解されそうだから言い換えよう。万物は宇宙である、と。そういう視点から見れば、宗教間の争いや、人が人を殺す戦争など、何と馬鹿化た茶番でしかないことか。
 人が生を考える時、生き方としての宗教に突き当たるのは当然のことである。それは哲学、芸術の問題とも重なるわけだから。旅の中で大自然が過酷な姿で、人に立ちはだかる時、その中に足を踏み入れた古人の、理想に懐(なつ)く熱い想いが、却って現代に蘇ってくる。僕は、新しい自分を見つける時、なるべく古い言葉、古い物に耳を傾ける。単なる新しい形は、一日たった新聞のニュースより古くさく、薄っぺらな塗装に過ぎないことが多いからだ。そんな外装を捨て、本当の姿で語ってくれるのは、古人が残した足跡に多く見られ、却って新しい世界が隠れていたりする。もちろん、自然の中には、何時だって新しい世界は有るのだが、凡俗な自分では、なかなか気付かなかったりするものだから。ここで言う『新しさ』は『普遍的』と言い換えても構わない、無論、現代某(なにがし)の狭義の新しさでは無い。そういった意味からも、古人の足跡を問うことは、自分自身への問い掛けにもなると思う。そんな今回の西域の旅は、大自然という外の世界を借りた、自分の内の世界への問い掛けの旅でもあった。


西域紀行写真アルバム(筆者撮影)

半田強氏プロフィール   1948年9月山梨県東八代郡富士見村唐柏(現石和町唐柏)に生まれる。1964年山梨県立第一高校入学、ゴッホの生き方に感動し、画家を志す。家族の反対もあり、同校卒業後家出し、上京する。独学で画壇にデビュー。以来世の流行を追うことなく、独自の原始的な素朴さの世界を追究している。現在、国画会会員。

(採録:地域資料デジタル化研究会 2001年9月)

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